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ニヒリズムの暴力

究極の真実は、意味(はある)、である。言葉も物質も生命も、それを表現するための構造に過ぎない。自分の生きる意味は何かと問う。そして、結論する。生きる意味などない。そうしたとき初めて、生きる意味のない人生が展開する。意味を告げるメッセージはすべて不可視となり、課題もなくなる。

例えば、究極の存在としてリンゴを用意する。リンゴとはリンゴである。だが、経験する存在(人間の意識)はリンゴを、形、色、におい、味、その他、いろいろな視点から見るに過ぎない。重要なのは色として見ようとしない限り、リンゴは赤くならないということだ。一般化すれば、視点がリンゴを表す。もっと言えば、リンゴを見ないという選択肢もある。リンゴを見なければ、それを味わってみようか?とか模写してみようか?などという課題に気がつくこともない。つまり、意味というのもそんなものだ。

人生は無意味、と思うことによって有益なのは、人生の課題を見る煩わしさを根本から除去できるのだ。だが、リンゴは見ようと見まいと存在する。意味も同じだ。無意味と信じようと、無意味は体験はできるかもしれないが、究極意味は存在している。意味がなければ、構造は展開しない。言葉も物質も生命も、意味があるからあるのだから。だから、いつか意味も目の前に現れる。

人はいつ、人生は無意味だ、と結論するのか。課題やメッセージを見たくないとき、見ても対処ができそうにない時、おそらくは根源は逃亡である。楽しい時はその正当化の意味で、苦しい時はあきらめの意味でこの結論を引き出す。何から逃亡したか? それ以上、課題と向き合うことから。逃亡に成功するためには、課題やメッセージを告げ知らせる暴力には耳を貸してはならない。だから、人生に意味はあるか?としつこく議論する声は耳にしてはいけないし、耳にしてしまったら弾圧する必要すらある。

しかし、しつこく議論する声は消えることはない。絶対にない。いつか逃亡は失敗する。議論は人の声をとるとは限らない。人間の行い、社会の変化、自然の猛威がそれを表現することもある。究極、世界は意味そのものだから、課題やメッセージは必ずそこに確かにあり、それをいつまで(意識的、無意識的に)無視できるか、という問題である。いずれ無視できない規模でやってくるだけである。

やってくるのを待つよりは、積極的に意味を考え、意味を味わって生きる方が豊かだと言える。ニヒリズムは実際には向き合う強さを表すのではなく、逃亡を意味していたのだ。助けてくれよ、と言っても助けてくれない神を理解できずに、その真意を知ることをあきらめたのだ。だが、それは必ず終わる。

神に助けを求めて、神しか助けてくれないと思えるような事態に遭遇したら、その時は祈ればいい。きっと実際には何も変わらない。だが、祈れば通じる、という信仰がもたらすのは、他の視点から見る可能性かも知れない。永遠から見たときの、死や孤独、愛の本質に通じることすらあるかもしれない。それを理解すると、現実を見る目が変わる。変わらないと思えたことが、これは一時的だと思えるようになる。そして、変わらないことに耐えることができるようになる。信仰や祈りは、外部ではなく内部のものだが、内部の意味が外部を構造化する。構造の意味を知れば、そこにはきっと感謝すら生じる。

世界の抑圧の一番はねのけがたいものは、認められなければならない、というものだと思う。周りと違ったことを考えてはいけない。みんなが正しいと言ってることには賛成しなくてはいけない。確かに、自分の道を貫き通そうとすれば、必ず孤独や死の恐怖とも対面する。だが、その意味も分かってしまえば?

私も「神は蘇生した」などと言えば、どれだけ常識的でないことを言ってるかはわかる。科学を疑問視することも基本的にはタブーだし、経済を無視した発言もほめられたものではない。認められる必要があるならば、だが。確かに認められることは重要だと思うが、だがなぜ認められる必要があるかも重要だ。何が何でもその必要があるか? 私の結論は、認められる必要はない、である。人生の意味は認められることにはない。

むしろ、孤独や死の本質の方が、意味である。孤独の中で楽しむ力、死を知ること、これは世界の究極である「意味」に通じてしまう。孤独は全てと繋がることであり、死は存在しないことを確信する。おそらくニヒリズムは、かっこよく見えてもそれを標榜する時点で孤独を恐れている。ニヒリズムだけを信じたら、その瞬間に世界から退場することになるはずだ。だから、ニヒリストはニヒリズムという意味にすがって生きているのだ。それなら、自分は神の子だという方が、よっぽど清々しくないか?

当然、自分は神の子だというのは、同じ資格で、君も神の子だ、ということになる。自分自身も神への途上であり、神に還る途中なのだ。その進度の差はあれ、本質的に人間の優劣など存在しない。そもそも進度というのも、忘却していた世界の意味をどれだけ思い出しているか、程度の問題だ。こういう神のことはいわゆる語りえないことに属するので、それは構造をもって意味を語ることになる。科学も宗教も哲学も歴史も、それらはそれが誠実な成果である限りにおいて、世界の構造を語る。構造は意味の展開であるから、構造は意味を示唆することになる。

今、望んでいるのに実現できていないことは、実現する準備ができた時に実現するということでもある。望んでいるのに実現しないことで絶望することは、その実現を一番遠ざける原因である。ただし、望んでいることがその形のまま実現するとは限らない。なぜなら実現するのは形でないからだ。意味が恣意的に構造を導出するのだから、気がついて実感するのは意味の方だ。

高度な意味を(創るにせよ味わうにせよ)望むなら、高度な認識が必要でもある。運や偶然で望みが実現しているときには、それが実現していることに感謝も生じなければ味わいもない。それは構造が幸せを示唆するだけで、意味まで幸せではない。人生とは意味である。人生に意味があるというより、意味そのものでしかないのだ。

by selo-celery | 2019-10-02 20:38