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魂について ~隠された世界秩序の考察~

魂で生きるか、肉体で生きるかの選択。魂で生きる人は課題を知ろうとし、知ったらそのために与えられた能力を誠実に使う。肉体への理解も深まる。肉体に生きる人は魂をバカにする。わからない、見えないから仕方ない。そして努力して自動反応の人生を終える。そこに優劣はない。生き方の選択の問題だ。

魂のレベルで見れば、人間は完全に独立している。自律して動いている。お互いが合意の上で相手を道具として用いる。自分の鏡として、自分の行為の原因と結果を表す存在として。ゆえに地上の世界においては無償の愛が地上の生命を維持するのに最も効果的な手段となる。相手を理解し尊重すること以上に、個々の魂の存在意義を肯定するものはない。

相手に関わるうえで最も大切なのは、相手の魂が望んでいることを察知すること。無償の愛の本質は、相手を理解することに極まる。理解したうえで相手の望みに答えるべきか否か、いやそれこそメタレベルでの判断となる。人間としての理解を超え、魂への理解が愛の本質となる。そして同時に他者の魂の理解に正解などないと覚悟もすべきだ。

基本的に魂は地上の課題を経て、その意味を全うする。地上で成長するというのは、意味のある記憶を増やすに等しい。ほとんどの魂はそれぞれ固有の解決方法を持つ。そしてそれに応じた能力が地上で発現し得るようになっている。ゆえに無償の愛の手法はその力を肯定することに尽きると言っていい。

力で蹂躙することを解決策とする魂もあるし、卑劣な手段こそが意味である魂もある。そもそも天界の事情など地上の存在に理解できるはずもない。いや、理解しようとするなら理解できる可能性もあるが、その観点に至るには地上のすべてを理解する意志が必要である。理解していれば善も悪も加害者も被害者も存在しない、という帰結だけ承知すれば十分である。

地上には忘却という要素があり、きっかけを待っている魂は実に多い。忘却を確定させることを使命とする魂まで存在する。意識の自覚の有無にかかわらず使命である。すべては善悪などではない。むしろすべてが善であり、必然であり、調和なのである。きっかけを与えることは神も天使もやる。地上の存在にもその使命はある。

自己実現、自己変容というのは基本的に魂的な課題の総称である。地上の材料をきっかけにして、有益な記憶を刻み込む、つまり成長することは基本的には魂の本質である。ただ、精神レベルの低下すら魂には必要な記憶である。そういう視点で世界を見れば、自分の投げ出された運命も必然を帯びる。

自分の運命を切り開く手段として、無償の愛は利用できる。相手を理解し、その上で交流すれば、他の魂であろうと世界であろうと、こちらへの理解度を上げて答えてくれる。被害者になった時こそ、加害者である相手を理解すべきだろう。その奥にある相手の魂の目的を透視すれば、自ずと対等の関係に戻るだろう。

基本的に哲学も宗教も魔術も科学も生活も、この認識に至ることが一つの目標である。至る手段などなんでもいい。ただ魂の課題と関わることを人生の目標としない限り、この認識には至れないかもしれない。そしてこの目的を多くの人が忘却しているから世界は混乱している。自分も忘却したまま生きるか、きっかけを与える側に回るか。選択である。

忘却したまま生きてもいいのだ。本当にそこは選択だ。そして本当に忘却したままでいたい魂に私の言葉が届くことは絶対にありえない。私は自分の声を押し付けるつもりは毛頭ない。(それは明らかに愛の好意ではない。愛以外に基づく主張・説得は自傷行為だと理解できてしまう。私は弱くて情けなくて臆病なので、そんな自己犠牲など嫌である。)

苦しいことを楽しむことは非常に難しいだろう。だが、苦しいことを笑い飛ばすことはできる。他人が悩んでいるときに笑ってあげることが愛になることもある。基本的に大きな不幸に遭遇しないために小さな不幸は立ちはだかる。結婚してから痛い目に遭う前に、無残にふられる、などはいい例だろう。小さな不幸は祝ってしまうのがいい理由だ。

人生は完全(必然で完璧)であることを知れば、困難に立ち向かう力は生じるだろう。苦しむのは物理ではなくあくまでも精神なのだ。そして精神の目は視点を自由に変えられる。自分の困難に別の解釈が与えられれば、悩んでいるのが嘘のようになることはよくある。見えない世界に心を開くと可能性は広がる。だから魂という概念は活用して損はない。

また目に見える世界を語る哲学である科学が、目に見えない宇宙の実在を主張するに至っているのだ。人類は進化の時を迎えたと言っていいだろう。希代の魔術師アレイスター・クロウリーに言わせればホルスのアイオンとかいう感じか。まさに個々の意志(地上の意志ではなく、魂の意志)が発揮される時代になると思う。その流れに乗るのは実に楽しいと思う。

既にわかっていることの中で生活するのを好む人には、時代は厳しいかもしれない。そういう人たちがいなければ、今の世界の閉塞感は創り出せなかったのだから、彼らの使命だったのだ。たぶん、もうその役目は終わりつつあるはずだ。そういう人たちは、切り替えてわからないことにも心を開くようにするなら、次の時代も楽しめるだろう。そして命も与えられるだろう。そのあたりは利己心に問うべきかもしれない。(魂の選択ならそれに気がつくだろう。)

利己的な遺伝子、というのが流行ったけど、次の時代は、利己的な魂、かもしれない。とことん利己的になろうとすれば、地上の存在は他者を愛さずにはいられないようにできている。もともとすべての魂は一つの存在、神から派生しているのだから当たり前だが。他を傷つけるとは自を傷つけると等価だ。

魂に着目して次世代を考察して導かれるのは次のことだ。つまり、遺伝子の時代、血縁の時代は終焉を迎える。血縁を残すことが己の満足につながるなどというのは、自己催眠以外の何物でもないということに気がつかざるを得ないのだ。親というのを遺伝子提供者、などと呼ぶのもいいかもしれない。それは宇宙的な発想だから。

by selo-celery | 2019-11-14 02:19