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人はみな、信じたいことしか信じない。

人は自分の信じたいことしか認めません。
これが事実です。
なので、いくら強い説得力をもってしても、
全ての人を同じ思想に導くなど不可能です。

そしてもっと言えば同じ思想などというのはあり得ません。
知識が同じであっても、それに対して抱く考えは違うのです。
同じ科学の知識についても、
ある人は客観性を重視し、周りと協調していくための手段と考えているでしょうし、
ある人は自分の現在の都合の良さを、ただ周りにも肯定させるための道具として用いているでしょう。
単に生活手段の人もいれば、私のように美術品を鑑賞する感覚で愛でる人だっているかもしれません。

同じ思想に至る道も様々です。
自分で考え、学んだ結果、そこにたどり着く殊勝な人もいれば、
ただなんとなくかっこいいからとか、都合がいいから選ぶ人もいるでしょうし、
それこそ他人の意図によって押し付けられる人もいるのです。

そして、結局、自分の都合を離れるのは人間はみんな怖いのです。
だから、ある人は他人を支配するため、またある人は自分で考えなくていい理由を得るために、
みんな共通して、信じたいことを信じ続けるために、
突きつけられる事実を無視しようと大変大きな努力を払うのです。
(嫌悪感は不都合な事実と向き合った時に生じるものです。)

科学者が人類がすべて科学に目覚めて同じ方向を向き、
人類規模の課題に挑まなくてはならない、
と考えたとしても、それは不可能です。(ですよ? ドーキンスさん。)
なんなら、その科学者自身が当の信念を変更できるかを試してみればいいです。
その人はきっと心折れるまで、その信念にこだわるはずです。
(科学者だというならその客観的現実を認識した方がいいです。)

同じことは神を信仰する人たちにも言えます。
神を信仰する人が、いやもっと言えば神を身近に感じている人が、
その信仰を捨て去る瞬間があるとすれば、
それは、当の信仰する神自身がその人物に、
「神を信仰するのはやめなさい。」
とささやいた時でしかないと思います。

というわけなので、人は自分が信じていることしか信じないのです。
その信念に追加されることがあるとしたら、
その信念を揺るがされる経験をしたうえで、
さらにその経験を真摯に受け止めた場合だけでしょう。
重大な経験をしても、
運が悪かった、あいつが狂ってるだけだ、妄想に過ぎない、
気のせいだった、などなど、
と見ないふりもできますし、理解を超えたことは無視することもできます。

ですが、見て見ないふりをしたとしても、
そして理解できないことを無視したとしても、
事実として、見たはずのものは存在しますし、
理解できないことなどいくらでも実在します。
なので、結局はそれを認める事態に陥るまで、
頻度はともあれ、それらは何度もその人を襲ってくる羽目になります。
その都度、運が悪い、あいつがおかしい、こんなの妄想だ、気のせいだ、
と、どんどん(恐怖や嫌悪感を)ごまかすエネルギーが増えていき、いずれ決壊します。

いずれ決壊する、というのが必ずしも人生のどこかであるわけではないですが、
それこそ運を天に任せるようなものです。
そして何よりも、事実に目をつぶったままの人生は、
楽しいことも、うれしいことも、気持ちがいいことも、
全ての事実に目をつぶっているので、本当を知らないままなのです。
偽りの幸福を幸福と勘違いしている様は、
わかっている人から見れば、哀れであり悲しいものです。
(その哀れや悲しさもまた、
わかっている人には別の意味の感動と自己実現への衝動につながるのですが、
それはまた次元の違う話です。)

自分が信じていることしか認められないという性質は、
ほぼすべての人に共通するものであり、
もしかすると(しなくても)この信念自体も当てはまります。
そしてこの信念のループから抜け出す方法は、
この性質を知ることで、自分が信じることに自覚的になることです。
信じることを相対化出来てしまえば、
信じることの外にまだ真実があることを信じることができるのです。

宇宙の外にも世界があることを信じられない人は、
その世界を感じようとは思わないでしょう。
しかし、人類を発展させてきた思想や科学の仕事は、
そういう外側からの視点で見つめたときに得た着想に基づくものも多いのです。
従来の思考の枠組みの外から見るからこそ、
新しい創造が得られるのです。

創造というのは実に人間らしい営みであると同時に、
ほぼすべての人がこれに関わるべき仕事です。
消費や享受で得る知識や知恵などわずかですけど、
創造によって得られる喜びは無制限です。
何より他人の存在を本質的に必要としません。
本来、人間とは孤独だし孤立していますから、
認められる必要のない活動はなによりも福音なのです。

創造と言っても大げさに考える必要なんかありません。
毎日、生活するときに自分で考えて選択することによって、
自分の人生はまさに創造されていくのです。
その過程を繰り返していれば、どんどん物質世界でも、
本当や本質を学ぶ機会に恵まれますし、
結局は、学びによって成長した結果、
他人から評価されてしまうという結果もついてくるかもしれません。
(でも結果はご褒美であって、それ自身を期待すべきではないです。
結果に留まることはなによりも創造と対極にありますし。)

話がずれたかもしれません。
人間は信じている以上のことを信じないという特性があります。
これを打ち破るのは、この信念を揺るがす経験のみです。
他人から無理矢理、その信念の不備を知らされたり、
強引に自然災害や病気などで悟らされたりすることのないよう、
普段から信念のありかには自覚的になった方がいいでしょう。
(基本的に法(信念)というのは自分自身にも適用されますので、
たとえば優越した者は劣等な者をいかように扱ってもいいと言う法(信念)があれば、
自分が劣っていると見なしていた者たちに見下され踏みにじられることもあります。
絶対的な優越など真実としてありえませんので。
素粒子が空間次元と時間次元に持つベクトルの合成は常に一定というのと、
人間の各々の能力は似ていると思います。
ここでも見えないものを侮る手はないということになります。余談過ぎた。)

自分自身の人生を生きるためには信念が必要です。
ですが、その信念は自分自身が心から従えるものであるよう、
自分自身で考え、つかみとって常に更新する必要があります。
それが一番、自分を自分らしく生きる道であり、
自分らしく生きる人が自分を愛せない理由はないし、
自分を愛せる人は他人も愛せるので、
他人からも結局は愛されるのです。

考えるのがめんどくさい、とか、見たはずの事実に目をつぶる、とか、
自分の見たものしか信じない、とか、理解できないことを狂気や妄想で片づける、とかは、
結局は自分自身にとって不利なのです。
この不利をわかった上で、自分自身を創造的に生きる道が、
楽なのかといえば、当然違います。
大きな信念ほど辛苦とともにありますが、ただ幸福は常に身近にあります。
むしろ楽だったら、信念を保つことなど忘却してしまうでしょう。

とりあえずこの文章で述べている主張(?)を受け入れるかどうかも、
あなたが信じたがっている都合が優先され、決定されるでしょう。
そして、今抱えている都合が自分に好都合であるほど、受け入れがたいことでしょう。

そんな人に対して、私にできることはただ一つ。
「そのまま好都合を抱えたまま、人生を無事満足のうちで終えられることを・・・」
そう心よりお祈り申し上げます。
同時に、
「都合を優先する人に洗脳されてしまう人たちが早く解放されますように・・・」
とも。

他人に自分の信念を押し付けた結果、押し付けられた人の中で殺された信念は、
押し付けた人の信念の中で、暴れまわる結果になりますから、
この手の営みで得をする人は誰もいないんですけどね。
(時を超えて復讐の形で結実するケースがよく知られていますかね。
そして個人や家族にとどまらず、民族、国家単位のものもありますね。
歴史を作っているエネルギーの一つの大きな要素です。)
(この力学を理解できる人はおそらくほとんどいないでしょう。
そして、各々が必要に応じ確認すべきもので、信じるべきものでもありません。)

by selo-celery | 2019-12-06 04:26