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世界の存在理由は一種のトートロジーである -形而上学の世界観-

形而上学とは、この世界において最も広く最も深く最も根源的な問いである。確かハイデガーがそう書いていたし、その通りかなと思った。

具体的な問いの形としては、「世界がなぜ(実在しないよりも)むしろ実在するか」ライプニッツ 『事物の根本的起原』(1697年) が最も原初であり明解であろう。なお、ライプニッツ自身はこの問いに対して「最善説」というのを提示したが、私の考えとしては、形而上学はそれにとどまらずに無限の回答を用意するというものになる。

ライプニッツの「最善説」は神の存在論的証明により、世界の無限の可能性の中から善なる世界が収束するというものだが、私の回答は無限にある理由は無限のまま有効性を認めるというものである。この無限の理由の中には明確に表現する理由もあれば、理由はないというのも含むので、理由としての濃度もさまざまである。この事態は逆に言えば、全ての回答を肯定することで何も答えていないのであり(これによりカントの理性批判による限界を逸脱してないと考えている)、その構造こそがまさに形而上学だというわけでもある。なお、形而上学そのものは構造ではない。

このままだとわけがわからないので、一番、直観的な表現をするならば、世界の存在理由は「一種の」トートロジーである、となる。トートロジーだからこそ、何もかも詰め込めるし、意味がないようで深い意味があるし、何とでも言明出来る空虚もあるし、言明はできないけど語り得ない確かな何かがあるのである。その領域を写像とか関係とか偶然とか相補性とかで埋めることもあるいは可能かもしれないが、埋めたところで埋まらないのである。だが、そしてもともと埋まっているのでもある。

こういうトートロジーは言語にも反映されている。ソシュールやウィトゲンシュタインの成果を見れば、言語体系あるいは論理構造が恣意性そのものだとわかるし、全体があって初めて部分が理解できるものでもあり、その運用の中の有効性に意味を見つけるしかないというものでもあることがわかる。言語は概念世界そのものであり、形而上学、つまり世界を反映している。

このあたりのもやもやが理解して把握できると、「世界がわかった」となり、そして「世界がわかった」の総体が世界である。こうして哲学によって世界を究明すると形而上学になり、この形而上学を世界観(無限の世界観の混成)とすると「意識としての私」は無意識の心理学(深層心理学)を帯びることになる。

無意識と言うのは意識していないが確かに存在する全体であり、その現場で使用される象徴概念はまさにトートロジーでもある。形而上学の全貌を保ったままで心理世界へと翻訳すると無意識の心理学となって、実用化するという感じである。深層心理学のシンクロニシティなどは、論理とのアナロジーで言うなら写像形式に相当し、(まさに神=世界の総体にしか)語り得ない代物である。

少し経験的に形而上学を語ってみる。

形而上学とは科学、哲学、心理学、宗教、物語、あらゆるこの世界を構成する系統及び非系統を、存在あるいは肯定という作用において束ねたものである。そこには否定すべきものはなく、否定されて見出されればそれは存在となり肯定される。そういう運動が顕現すると、宇宙という構造をとるのである。

多くの人が信念を持つということを、より強固に完全にそれを身につけようとするようであるが、宇宙的な信念はむしろ緩く広く柔軟さを得るものである。多元性にも通じるが、なんでもありだね、という肯定、この肯定という一元性に強さがあるのだ。この肯定の一元性を私はプラトンの善のイデアに見立てたりもする。排他性を持つ信念は、常に競争に巻き込まれ疲弊する摂理を持つ。

もちろん肯定するのも苦労はある。人生の不条理を受け入れるのは難しいし、悪人の所業を理解するのも困難だろう。何より受け入れ難いのは世界の全ては自分の責任だという真実かも知れない。一歩踏み出して素直になってしまえば一気に駆け上ることは出来ると思う。自分は宇宙だと真に感じるようになる。

この宇宙と一体の自分が、形而上学的経験である。形而上学を経験するのが私であり、それは宇宙を経験することと等価なのである。宇宙という1から流出して、2となり、+1が成立し、3となり4となりやがて多となる。この形而上学はヘーゲルがうまく体系化していると私は感じた。

ちなみに形而上学に対する数学的な理解は、ゲーデルの不完全性定理が有効だと思う。あれはある系に着目すると理性とやらの限界を知ることになるが、あらゆる系を肯定する真実と見なせば異分子共存の希望(恒久平和の可能性)そのものである。(集合論はもっと哲学的に注目されるべきだと思う。他にもIUT理論など、数学を哲学すると実に宇宙を感じる。)

もっと具体的に現実を語ってみよう。(それでもまだ抽象的だが。)

たとえばここに、科学を標榜する人と形而上学を標榜する私がいたとしよう。おそらく科学の人は形而上学の私を取り込めずに無理解の下、排除、否定する。逆に形而上学の私は科学も内包しているゆえに、科学の人を取り込んで理解する。形而上学の私は科学の人を問題なく受容できるので葛藤は生じないが、科学の人は形而上学の私に対して否定の感情を持つことになる。

そして現実世界で否定感情を持てあます科学の人は形而上学の私を不当に排除しようとする。科学の人は世界観が狭いがゆえに、形而上学の広さを弾圧しようとするのである。この逆は生じない。本当に強いものは弱いものに脅威など感じないから、それを弾圧する必要など全くない。実際、深層において(つまり真実のレベルにおいて)弱いものこそ強いものなのである。その真実が共有されていない原始的な環境でのみ、弱いものが強いものを糾弾する現象が生じ、弱いものが十分に覚醒していなければ、それに甘んじることもある。(いじめとはこの構造でもあるので、弾圧されるものの真実における優位性を全世界が理解すればいじめは廃絶される。真に弱いものが真に強いものに全てにおいて劣位に置かれることに耐えられず、理解させないように頑張っているだけである。)

話が大いにそれたが、科学の人の不当さは確信犯であるかもしれないし、本気で正当だと思っているかもしれないが、形而上学の私はそれを正当な理由がない、つまり不当だと知っている。そして形而上学の私は科学の誤謬ではなく、科学しか理解できない科学の人の無知蒙昧と傲慢を認識することになる。科学が間違っているのではなく、科学だけを正しいと見なす人間がおかしいと正しく判断する。

なお形而上学の有効スパンは永遠であり、科学は有限な時間・空間である。この不当さとおかしさのツケは、黙っていてもいずれは(あるいはどこかで)科学の人が支払うことになる。だから、それを理解できる形而上学の私は沈黙を守る選択もやぶさかではない。ただ、形而上学の私は科学の私も内包しており、科学の(物理的生命に価値を感じる)私が科学しか理解できない人を糾弾したがる。永遠で勝負すれば確実に勝てるのだが、有限な時間でも負ける理由はないので勝負しに行くのである。

もちろん、そこで勝つ必要は形而上学の私にはない。なにより通約不可能な相手との対話は平行線に終わる。ただ、永遠に踏み込んで科学の人が経験的に敗北したこと悟らざる得ないときに、その理由を知るきっかけを心の片隅に植え付けるのが目的なのである。「君の蒙昧では今理解できなくても、いずれ理解することになる」という予言であり、宣告であり、思いやりであり、やさしさであり、愛であり、呪いである。科学の人が形而上学を嘲笑した分だけ、己の無知蒙昧と傲慢に気が付いた時の恥と落胆は大きいはずだ。科学の私はそれを永遠の領域から憐れむ(という今の体験をする)ためにあえて行動するのだ。(当然、この文章もその意図を含む。)

科学の私は科学の人と同様に捨てる人間であり、ここに述べた通り、性格も悪いこと甚だしい。しっかりと形而上学の私が完成していれば、その場で自足して余計な言動に出たりはしないだろう。つまり、現実で活動している分、私自身も人格が形而上学まで統合されていない証拠でもあり、この無駄で余計な活動を通して、統合しようとしているのでもある。ちなみに形而上学人間が完成すれば、それは愛と呼ばれるものになると思う。そこには一切の分離・取捨はなく、すべてが理解・共有され、統合へ向かうからである。

悪というのはこのような確信犯の下で実行すると、人生の意味(概念の全体性の回復=愛の体験)と合致する。私が悟ったような生き方をするより、はっきりと嫌われ者を志向するのはそんな理由なのだろう。自分がそうであるから、他者の悪に見える所業をそのように理解すると、もしかしたら深淵な意図のもとに言動を選択している可能性にも思い当たることがある。この一瞬の逡巡は、安易な都合の悪さゆえの批判を押しとどめることもある。(もともと深層心理学はそういうのを扱うしね。)

多くの人に嫌悪感を抱かせるような行動をとるのは、まったく見上げたことではない。そもそも心にしても世界にしても、その制御や統合は完全に内面だけで進行させればそれでいいのに、それをわざわざ外界に表現するというのは完全に余計なことであると形而上学の私は知ってる。ただ、科学の私は揺らぎ(気分)を有する人格ゆえに、真実を蔑ろにする行為にむかつくことがあるのは事実である。とはいえ、ある程度は真実に目覚めて欲しいという愛も含む反撃行為であり、科学の人の不当な暴力に実際に困惑はしても、見下しているということではない。(実際、真実に目覚めるのはいずれ誰もが経験するし、そうしたら私なんて大したことないのわかるしね。ブッダのような本格的に統合された人格なら、温和に悟りを共有するなんてのにもなるのだろうが、私は人の上に立つ器ではないし、本来は目立たないごく普通の人間でなりたいのですよ。普通は…手遅れか…。)



形而上学を理解すれば、それは世界を理解することであり、人生を理解することであり、全てを説明する能力を得ることである。分類しラベルをはるだけの知識とは全く違う種類の(応用自在の)知をものにする事である。これがプラトンとアリストテレスの根本的な相違だろう。プラトンはわかっている人であり、アリストテレスは知っている人なのだ。愛する(体験する)のと知る(知覚する)の違いくらいあるだろう。とはいえ、アリストテレス自身は十分に、わかっているの領域にも達していると思うけどね。

by selo-celery | 2020-03-01 05:05