人気ブログランキング | 話題のタグを見る

宇宙の秩序について -真理化という人生の目的-

宇宙秩序システム(仮)
・対称性:質、保存則(ゲージ対称性等)、超対称性、因果応報(自由-責任システム)
・相互関係性:e^iπ+1=0、単位、諸定数、体系と意味(辞書と語)、分析と総合
 ・メタ構造:空、フラクタル、ホログラム、共時性、弁証法
 ・類似性:アナロジー、(言語)ゲーム、公理系、世界観、トラウマ
・変化と揺れ:振動と波動、不確定性、象徴、不定性、歴史発展性、不完全性
・連続性:作用、集合的無意識、場の理論、愛、無限
・認識・想起・忘却:主客分離、意識、意志、創造、イデア、交信、生と死
 ・対称性の破れ:量、重さ、偶然(エントロピー、熱)、優劣・善悪(太極の分離)
 ・多界:時空間、天-地ー人(概念-自然-心理)、物理-エーテル-アストラル-ブディ


様々な学問やら神話やらから自然が好むであろう秩序について、思うがまま列挙してみた。列挙なのでこれらの秩序の間の関係がうまく示せないし、秩序の話なのに無秩序になってしまった。こういうのは分類的に扱うよりも、その場その場で相手に応じて語る仕方の方が、実際には秩序は語れるのではないかと思う。そして、こうやって分類して列挙するとこれで全てと思ってしまうかもしれないし、物事はわかった気になるのが一番危険なのだ、ということも変化と揺れという秩序項目から言えるのではないか。

実際、一般に人間が生きているときは関心は、認識・想起・忘却にほぼ集約される。特に太極の分離である善悪や優劣、そして生死が大きな関心となって人生を動かしている。つまり人間が生きるというのはある意味、真理の中の真理である対称性ではなく、その破れを実感するということである。つまり真理を顧みない、そのレベルだけで生きる人間の人生とは残念ながら嘘と虚構そのものだとも言える。(太閤秀吉の辞世の句参照。)

真理の中で生きなくてもいい、というのが対称性の破れがある恩恵でもあるが、破れというのは破れていない状態からの逸脱には変わりない。我々は自分の自意識を認識したとたんに、その認識が周囲と分離していることを観察によって知り、その観察によってエネルギー場から物質を実体化させる。現実はその場その場で私が創造している。私の意識の連続性が物理世界の連続性である。普通、人間は物質があって認識するという仕方が本当だと思っているが、それは単に経験の根源を疑っていない素朴な世界観であるに過ぎない。

そのあたりの事情はカントなどの哲学者は述べており(カントの主張は少し穏やかではあるが)、さすがに現代までくるとクワインなどの反論もある。ただ、プラグマティストや実証主義者が真理の不在をいくら主張しようと真理は厳然と存在する。なぜなら、分析によっては世界はわからない。世界は総合なのである。世界は始まったのではなく端的にあるのだ。これは避けようのないトートロジーであり、原初の宇宙である空には全てが含まれていたし、その空は今もそこら辺にもある。(空そのものを認識するのが唯識である。)

これは滅茶苦茶な主張なので受け入れる必要はないし、私もこの構造は数理・論理的に解明するまで説得的になってはいけないと思う。だが、自分を人生の主に据えてくれるので、人生に幸せを呼び込むのに機能的だという理由で提示はする。但し、知る(=自分で考える)勇気を持て、と言われるが。その鍵を説くのは、こういう真理と思われることがらの列挙であり、これを眺めているときに漠然と感じる美しさや抽象性への憧れともいうべき、人間の生命や魂の性質だと思う。要はそこへ向かっていきたいという想いがこの不思議な真理に感応する可能性はあって、その想いが構造の解明には重要だと思われる。具体的に進む方向としては、分析と総合が同一化を目指すなら双対性に似た概念が、数理・論理化する道を示すかもしれない。(カントールやゲーデルを狂気へと誘った無限も、実無限としては総合的にしか理解できない代物である。)

なお、過去に存在した聖人と呼ばれる人たちは、間違いなくこの真理とともに生きたとは言えると思う。なぜなら宇宙の秩序とは宇宙の意志でもあるので、その意志とともに歩む人生は通常の人生ではあり得ないほどの喜びと驚きと幸せに満ちているはずで、この状態だと死も必然として受け入れられると思うし、人生に意味がある間は死を必然的に避ける生き方もできてしまう。人生は偶然の連続ではなく、意味のある物語の展開であり、あらゆる関心事と取り組むことの喜びとその解決に携われる至福など、気がついてしまえば圧倒的に豊かな生き方となるはずである。

以下はこの真理についての随想である。こういうことを私が考える理由や真理と生きる方法や、そこからの逸脱に対する誘惑について考えている。

私が一番、不思議でならないのは、言葉がなんにせよ伝達されることと、その言葉がそのまま相手を動かす力になるという構造。なぜ理解がそこまでの力学的なエネルギーに変換できるのか。制御機構にプログラムするのが言葉だとしても、神経ネット、生体力学で機構が説明尽くせるものかどうか。言葉の観点から言えば意味論の話になる。そしてこれはどうもすごく紛糾している。また脳についても制御とは言え、起こるのは意志なのである。この意志も決定機構はいったいいつのニューロン発火なのか? 実は意志が先でニューロンの発火は後という実験結果もある。

だから私自身はいったん、因果逆転(「構造が機能を産むのではない、機能が構造を要求するのだ」)で理解するのだが、因果逆転だとそのかわり最初にあるものが混沌とする。宇宙の始まりにはそこに全てが詰め込まれていた、という話になる。そいつを空と呼んでしまうと納得した気になるが、何も語っていないことも注意が必要であり、科学者たちは恐らくそう言うのが分析的思考から我慢ならないのである。だから分析と総合における双対性みたいなのはすごく研究価値があると思っている。認識論と動力学の統一理論みたいな感じか。ヘーゲルのように存在と思惟の一致とか「現実的なものは理性的であり、理性的なものは現実的である」というのを数式化する野望とでもいうかな。それが霊的科学になると思う。

これはコペンハーゲン解釈とかブラックボックス的、統計的な考えでは絶対に解決しない。つまり使えればいいとか、通じればいいといった人間の機械的な活動からは進歩は得られない。人間とは宿命的に物理科学ではなく、精神科学(霊的科学)へ突入するのだと思うが、それこそ人格は問題になると思う。たぶん精神科学の使用条件というか、起動条件というか、そういうのに必然的に真理に対する理解力は関わるとは思う。精神科学がある種の素材を用いるとすると、そこで増幅とかそういう機構も出ると思うが、それが心配ではある。寓話の上であるとはいえアトランティスはその精神科学の悪用で沈んだ形跡がある。(文献的にはアトランティス人トートが記したとされる『エメラルドタブレット』。プラトン『クリティアス』。)

また、私も深層心理学(私に言わせれば魔術科学=精神科学)を使うからわかるが、これは悪用すると人間を本当に堕落させると思うし、自他を深く傷つけてしまうものだと思う。誰もが使うためにはいったん真理へ通じて、邪な欲で使うことにより自身が破壊される構図にも気が付く必要がある。私の知ってる限りでも、過去にこれを世界の主になるために使用した者もいたことはいた。(もちろん悲劇的なことが起こった。)

先ほど挙げた文献『エメラルドタブレット』には、人間の宇宙での役割は悪の充満を善へと転換していくこと、という趣旨の記述を見るのだが、これは私が自分の人生の目的や意味だと思っているものに当てはめると、ぴったり符合する。それが宇宙の意志と自分の意志が一致して生きられるということなのだ。この理解に到達しないと科学使用は危険なのだという警告がアトランティスの寓話にも示されているのだと思う。

つまりそういう意味でも、人間は真理に近づき真理となるべく生きるのであって、真理から遠ざかり真理の不在=悪魔となるべく生きるのではないのである。道は上りと下りなので下りの方が楽だが、下れば下るほど知恵から遠ざかり愚かさを露呈していく。悪魔が為せるのは嘘と隠ぺいだけになるのだ。どう見てもじり貧だ。特に道具に安易に頼ることなんかは確実に悪魔への道で、経済も武力も権力も名声もそういう構造を持っている。それらを利用しないとなしえないこともあるので、道具の存在自体はいいし、持ってることに問題はないが、道具としての役割以上を与え自分の力を使わなくなると悪魔化する。目指すは真理化なのだ。

真理化とは自分の能力向上と言ってもいい。ただし道具を使わない部分での向上だ。素の自分が発揮する己の意志を成し遂げる力の向上が真理化なのである。それには知恵が一番大事だし、場合によっては訓練も必要だろう。これは一生かけてやるべきことで、だから停滞する経済ゲームは罠ゲームになるのだ。暴力による支配とかも気が付いていないだろうが、愚かさの蓄積という莫大なペネルティを得ている。

ノーリスクハイリターンの事業などこの世界には存在しない(対称性を好む真理の徒が一定数はいる限りさせないし、自然もそれを後押しする)。愚かさの怖さは、自分が招いた責任(例えば対称性の実現=報復など)による激しい痛みや悲劇を体験しても、その構造に気がつかず、常に他者や運に責任転嫁し、何度も何度も何度も同じ過ちを犯すことにあり、ビスマルクが賢者を言う時の「歴史(他者の経験)に学ぶ」とは対極にある。真理から見たら運などと言うのはない。全ては必然なのだ。

こう考えるとスタート地点の環境の差とか能力の差とかは実はあまり関係がないこともわかる。ともかく人生において己をひたすら少しでも真理化すればいいのだ。ここで関わってくるのは間違いなく知識の問題ではなく、それを消化する機能の問題だ。どんな経験も活かす賢さが鍵になるし、一つの経験から知恵を敷衍する貪欲さもその一助となる。頭の良さに恵まれないことから発揮できるようになる賢さだってある。

せっかく関心を持ったことならば、主体的に誠実にそれに取り組まねばもったいないという感覚になる。人を追い落とすことよりはどうやったら人が喜ぶか、人の役に立てるかに知恵を絞るようになる。そちらの方が明らかに難易度は高く知恵になるからだ。真理化は一生の課題だ。そして一度正のスパイラルに入ればその進展は指数関数的(とまでいかなくとも脅威的)である。今の教育は子どもたちからその可能性を奪っている。真理に生きていない人によって人間が育成されれば、真理に目覚める人間は教育の外から学んでその存在を示すようになるのは当然だ。

イエスもブッダも最後に悪魔の誘惑に抗したというが、誘惑とは望むものがあるときに負けるものだ。負けたときに失うのは自分への支配権だ。逆に言えば問題は支配権だ。だから自分が支配されないことの宣言、それはつまり他者を支配しないという決意と表明で悪魔は退けられると考える。対称性が真理の核心にある。

悪魔の手段は横暴である。死や恐怖による支配、怖いに決まってる。だが、自分を永劫に支配されるくらいなら受け入れた方がましだと考えた方がいい。色や力の譲渡による誘惑にしても、本当に必要な時には向こうから生じると知っていれば騙されることだけはない。そして、その力は真理を理解し、真理のために使うのであれば支配も従属もされない。(この構造はなかなか説明は難しい。機能が構造を要求する、という活動の一環ではある。)

そう考えると悪魔の正体とは非対称性、特に優劣の実感であるように思われる。とするなら、悪魔に抗する力は、支配してこようとする勢力を打ち払い、支配されようと媚びてくるものを遠ざけることに過ぎないのではないかと予想される。すなわち、自分と同列で仕事できる人だけでともに生きればいいのではないかと思われる。

真理を知って真理とともに生きるとしても、心のバランスは常に崩れるものだ。だが、その崩れを怠惰ゆえに認めないのだけがまずいのではないかと思う。自分という存在は、誰にも支配されない、誰も支配しない、ただ協力と相互理解あるのみ。真理で生きるとはこれ以上のものではないのではないか。(もっとも私の今の課題程度ならこれで十分なだけで、もっと心乱れる状況に今後晒されたときには一段上の技術が必要かもしれないが、基本はこれでいいと思う。)

確実なのは、悪の存在を憎むときに目を向けるべきは、自分の中の悪だということだ。それが理解できていれば、悪に向けて放つ対策は悪を無知から開放する手段になる。ただ非難し、疎外し、虐め、なじるのは悪が悪へと道を駆け下る方策だ。「支配から逃れるにはまず自分が支配を手放せ」。強引にまとめればそう一言で言えると思う

悪魔の存在など認めたくない、というのは私も感じている。倒すしかない敵なんてうんざりなのである。だから、悪魔というのは欠如だとしか私は考えていない。真理を十分に知らないからなれるだけだ。当然、私個人なんかでは対処できない規模の悪はあるだろうが、そういう悪からマークされたところで真理を抱いていれば何度でも復活できる。なぜなら対称性がある限り、攻撃しない者を攻撃することは不可能だから。恐怖するから自ら攻撃を引き入れて死ぬのだ。死は概念と密接に関わっている以上、対称性(とその信念)は絶対的に強い。

また、悪魔が単に欠如であるということはそれを埋めてやれば仲間ということだ。攻撃してくる相手は確かに怖いが、相手にだってそれ相応の理由があるのが普通だ。あんまり恐怖してやらず(この時対称性への信頼を活用する)その理由を看破してやればいいのだ。恐怖を与える力は恐怖によって支配されたときに外力となる。そもそもあの優しい真理以上に恐れるものがあるのか、と思う。優しいと感じられるのは、真理を味方にしてみればわかる。何しろ、起こることの全てが理解と納得、愛に満ちた冒険譚となるのである。対称性を破った時に因果の責任を負うなんてのも、むしろ感嘆してしまうレベルである。

なお、理解はできても感情的に納得できない、なんてのは当然私にもある。世界には優劣などは存在しない、とわかっていても、心から心配して良かれと思ってしてる助言を無視されたりすればムッとする。良かれと思うこと自体もそうだし、助言の内容だって反省すべきなのだが、それでも感情が収まるかと言えばそうでもない。そこはもう積み重ねだろう。なんてことはない、自分はホント無力で愚かで傲慢な人間なのだということを現時点でいったん認めておけばいいのではある。そうすればそういう優越感と連動した感情だって、仕方ねぇな、私なんてこの程度かもしれん、といったんは受け入れられる。いったん受け入れないとそこからの向上はないのだ。

これは開き直るのとは対極だとは思う。開き直るのは、感情を肯定して楽しむことになるから、真理を知っている立場からすれば堕落であり(いつかはわからない)将来の確実な破滅だ。それに対して受け入れるというのは、その感情を無視しないということであり、そこに発展の種子を見るのだ。負の感情を最大限有効活用するのは、真理の態度なのだ。

とまあ、真理真理とうるせえな、となるのもわかるし、だいたい世界が真理だけだったら、経験に意味なんかない。対称性の破れも真理のうちと言えばそうなのだが、破れがあるからこそ真理へ向かうのも破れに溺れるのも可能になる。それが経験だ。そして、真理へ向かうというのは、感じる人もいると思うが明確に邪ささえある欲だと思う。これが欲にならなくなってしまう地点まで行けば…とかも既に欲だと思う。でもこの欲まで否定しても仕方ない。そう言うのも含めて選択だと思うのだ。選択のための情報は多いに越したことはない。私の深層の意図はそういうことだ。知らん、私は迷惑にならん範囲、責任を覚悟する範囲(それが必然というなら死も辞さない)で、ただやりたいことをしているだけだ。

ところで、真理もその本質的な秩序に変化がある以上、怠惰がもっとも本人を蝕む罪となり得る。強欲も嫉妬も根っこを辿っていけば、怠惰に行きつくと思う。強欲はその地位を得る、或いは保つための方法にこだわる怠惰だし、嫉妬は怠惰を肯定するために向上心を放棄する有効な手段だから。大食や色欲は過度が問題で、傲慢は向上エネルギー、憤怒もそうとなると、怠惰が一番怖いなと思うのだ。大食や色欲は本能だけだと確かに適度は難しいだろうが、これに愛の要素を入れると制御できる。本能は貪ってしまうが、愛を入れるとしっかり味わうようになる。味わわない限り満足など得られないのだから、愛を知るのは間違いなく本人のためである。この愛を知りたがらないのもまた、怠惰による。

別に私もそれほど活動家ではないし、怠惰の心地よさは知ってるけど、ただこの怠惰とは精神の怠惰だろう。感情を無視するとか、思考を放棄するとか、これらをやり始めたら間違いなく人間であることをやめる。そういう人間をやめて心を失ってしまうと、人を支配してないと気がすまないし、簡単に支配されることにもなる。支配したがる人は知らないのかと思うくらい、人は支配されるのを嫌がるものだし、嫌な以上は常に反撃の機会をうかがう。愚かだと支配者の下で支配する楽しみで紛らすのもいるが、愚かゆえにもともと力なんてないから支配する旨味も少ない。

支配できないような人間こそ、愛も慈悲もあって人格を持つので防御に優れ、さらに不滅で強い。明らかに敵に回すよりは、協力者であってもらった方がいいし、愛や慈悲の強さに応じて協力を得ることができると思う。つまり、己の資質に愛や慈悲が、あるいはそれに向かう真摯な態度(ポーズなんかはすぐに見抜かれる)が要求されてくる。

真理は人格への早道で、長い目で見れば唯一の道である。真理はこれこれと明確に語らずとも、心があるなら直観できるので、わかっている者はわかってるのだ。そして真理へと向かう道は、死と生の本質に通じ、恐怖を廃して支配を無縁とする道でもある。その道を歩めば、人生の物語の進展とともに理解は拡大し必然的に理解の力である愛を得ていくだろう。そして愛は必ず外部に感応させるものであるから、内的世界だけでなく外的世界も幸福に満ち溢れていく。

要はこれが弥勒(阿弥陀仏)が辿る道だと推察する。理解できる誰にでも開かれている道であるとも思う。

by selo-celery | 2020-05-18 13:53