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ニーチェの無責任 -真・世界創成論-

科学者がもつ矜持とは、こんなものだと思う。
「我々はもっとも真実に対して開いた態度を持っている。
その証拠に、新しい事実が見つかった時には既存の理論を覆すのに何らためらうことなどない。
あらゆる理論は絶対ではなく、蓋然性であり、常に我々の関心は真実に向けられている。」
言ってみれば、科学には神はいないと宣言しているのである。
そして、神がいないことでもって、その矜持とするのである。

さて、ところで科学には神はいないのか?
いる!
共通認識というのが神の名前である。
客観性というのは、共通認識という神を前提としなければ発生しない。
さあ、科学者よ、共通認識という神も殺してみるがいい。
そこに残るのは、果たして科学という体系なのか?

科学者はニーチェの「神は死んだ」というのを非常に喜んで、
自分の世界へ取り入れようとする。
だが、科学者に神を殺すことなどできはしない。
ニーチェが殺した神の代わりに発生した神を、神だと見抜けなくなっただけである。
死んだ、いや、殺したと確信しているのだから、まさか別の形で降臨しているとは思わない。

それでも科学は機能している。
その通り。
それは、科学が信仰する神を世界設定の根源に据える遊びを、
無意識のうちに科学者の信仰心が選択しているのである。
だが、科学の神が与えている真実という名の嘘を、
それだけを世界から取り出して、正しさだと宣言する遊び、
そんな嘘だらけの知的興奮を味わう人生に意義はあるのか?
科学者の知的興奮は、正しさと間違いの分断なのである。
殺すことを喜ぶ神が、共通認識という名で呼ばれている。
科学が機能するのは、キリスト教の道徳神が死んだ直後に降臨した科学の神のおかげなのである。

神を殺すという試みは、ニーチェに極まるかもしれない。
しかし、ニーチェすらも無という神を殺すのに失敗している。

知識も事実も真実も概念も主体も、全て殺しきろうとした結果、
何も残らないという無、が残った。
この何も残らない無を認識できないままに、1と名付けるだけ名付ける。
1だ。
これを創造の神と定義すれば、ふたたび歴史は最初から始まる。

つまり、科学も哲学も宗教も、あらゆる物語は、1を定義することで信仰として始まる。
これが世界の創造である。
だから、定義の数だけ、世界の創造はあるし、あったし、あり続ける。

最初は1で、定義が2である。
だが、定義する前から1は定義される可能性のあるものをすべて含んでいる。
そして、それ自体も定義である。
実際、1をdefineすることこそが、defineする前の1を知るという行為に他ならない。
1をdefineすることによって、1をわかっていたことがわかるのである。
そしてdefineしたあとは、もう1はわからない。

1が全てを産むとしたら、ニーチェはこの1という神でもないナニカをわかった上で、
「神は死んだ」と言えたのだろうか?
いや、「神は死んだ」とは呪詛であり、言霊である。
実際に、ニーチェが「神」だと思っていたモノは、実際に殺された。

だが、ニーチェは1を知らなかったから、直後にもっと質の悪い神が降臨する可能性は知らなかった。
「神は死んだ」という以前に、どんな神を降ろすのかを考えておくべきだったのだ。
ニーチェの無責任は、ここにある。

by selo-celery | 2020-08-08 13:01